辺野古・現場からの報告

  キャンプ・シュワブゲート前で工事車両進入阻止を闘う
  キャンプ・シュワブゲート前で工事車両進入阻止を闘う

辺野古・現場からの報告


沖縄・首里日雇労働組合


忘れられない日


 2013年12月27日。国が提出した「公有水面埋立承認申請」を知事・仲井真が「承認」した日だ。12月中旬、仲井真は仮病を使って都内の病院に入院し、政府と密談を積み重ねた。3000億円の「振興策」を提示された仲井真は、名護新基地建設のための辺野古埋め立てを容認した。「いい正月が迎えられる」。これは仲井真が「承認」を決断した際に吐いた言葉だ。12月27日、仲井真の「埋立承認」に怒った沖縄労働者人民2000人が「県庁」を包囲した。すでに仲井真は、知事公舎に逃亡していた。昼休みの包囲行動を終え「県庁前広場」で集約集会を行なっていた時、主催者が「県庁に座り込もう!」と叫んだ。参加者は瞬く間に庁舎一階ロビーになだれ込み占拠した。そこで仲井真の「承認」会見を聴き、怒りと悔しさを共有したのである。

 2014年7月1日。安倍政府が辺野古海域に「臨時制限水域」を設定する閣議決定を強行した日だ。同時に、海兵隊基地であるキャンプ・シュワブ内施設解体工事に着手したことをもって「移設工事着手」を大々的に宣伝した日でもある。「臨時制限水域」とは、日米地位協定に基づく「立入禁止水域」の拡大である。海岸線から50メートルの「立入禁止」を一挙に2キロ以上にまで拡大し、埋立作業区域を覆った。そこに入れば「刑事特別法」を適用し検挙するという。だが、誰も怯まなかった。現場を担う仲間たちは、自信と誇りをもって海上と陸上を貫く阻止行動に踏み切ったのである。

 いま沖縄では、名護新基地建設阻止をかけた辺野古闘争が燃え上がっている。この闘いは、国の根幹を大きく揺さぶっている。私たち沖縄・首里日雇労働組合は、長年にわたって辺野古現地に結集し多くの仲間たちと座り込み闘争を担ってきました。本稿ではとりわけ、今年7月から開始されたキャンプ・シュワブ前での攻防を具体的に明らかにしたいと思います。全国各地で辺野古闘争をめぐる活発な議論が起こり、闘いの現場への結集の一助となれば幸いです。


陸と海で闘いが始まる


 沖縄労働者人民は、7月7日より海底ボーリング調査や埋め立て用の資材搬入を止めるためにキャンプ・シュワブ第一ゲート前で座り込みを開始した。ゲート前の一日は、朝8時のテント張りから始まる。9時過ぎには現場指揮者である「沖縄平和運動センター」議長の山城博治氏の司会で朝の全体ミーティングが行われ、「ヘリ基地反対協」の安次富浩氏から一日の行動提起をうける。地元で闘い続けるオジーやオバーをはじめ、沖縄内外から結集した仲間から挨拶をうける。午前と午後には数回、ゲート前でのワッショイデモが行なわれる。昼休憩をはさんで、午後4時過ぎまで入れ替わり立ち替わり参加者がテントに座り込む。海上の闘いは6月から動き始めた。有志のメンバーがカヌー練習を開始し、海上行動隊が組織された。海での闘いは陸上に比べて危険も多い。そのため転覆訓練など基本動作を身につけて初めて海に出ることができる。海上保安庁との激烈な攻防に注目が集まるが、そうした激戦を担うために日常から準備を進めている。

 テントを建て、カヌー練習をくり返し、双方が一日の行動を報告し合い、翌日に備える。派手さはないが、こうした地道な闘いが辺野古闘争を支えてきたのである。辺野古漁港のテント村は、10月末日で「座り込み3848日」を迎える。

 この辺野古闘争に対し、政府―防衛省は「丁寧に説明し理解を求める」と言いながら、闘いの裏をかくことばかり考えている。7月20日深夜2時過ぎ、業者名を隠したトレーラー40台以上が、シュワブに入った。沖縄防衛局は、工事車両入口とは異なるゲートを機動隊でガチガチに固めて闘う仲間たちを威圧・排除した上で、ボーリング調査用資材の搬入に踏み切ったのである。7月27日午後7時にはゲートが封鎖され、一晩の突貫工事で移動式鉄柵が設置され鉄板が敷かれた。この鉄板について、沖縄防衛局は「泥よけ」と説明する。だがV字鋼を洗濯板のように溶接した鉄板は、その上で転倒すれば命にかかわる危険がある。そんなものが前日までワッショイデモをしていた横断歩道上に敷設されたのである。「死傷者が出ても構わない」というわけだ。「殺人鉄板」と呼ばれ、「早急に撤去せよ」の声をあげたが、今なお設置されたままだ。「殺人鉄板」は、政府―防衛省の暴力的な手口を象徴するものである。ゲート前には民間警備員が立ち並び、その背後で警察がカメラを向ける。機動隊が待機する。本来であれば前面に立たねばならないはずの防衛局職員は、そのまた後ろに隠れるようにしてこちらを監視し続ける。政治家の薄っぺらい言葉は、辺野古の現場に立てば一瞬でかき消される。


広範な大衆決起を実現


 身体を張って闘いぬく辺野古闘争は多くの共感を呼び起こし、8月に入ると家族連れや学生をはじめ若者たちの参加が目立つようになった。新聞やテレビも競い合うように報道した。テントは見る間に長くなっていった。安倍政府は、この大衆決起を叩き潰すために海底ボーリング調査に踏み切った。8月14日早朝、まだ暗い辺野古の海を見た者は生涯忘れることができないかもしれない。煌々と明かりをつけた海保の巡視船が等間隔に並び、その間を小さな光の点が行き来していた。海保のゴムボートや警戒船だろう。辺野古の海は隙間もないほどに埋め尽くされていたのである。それを見た戦争体験者は、米艦船が島を包囲して艦砲射撃を行なった沖縄戦を想起している。それほど凄まじい光景だった。この日、沖縄防衛局は、ブイとフロートの設置を強行して海を囲い込み、18日から海底ボーリング調査を強行したのである。

 だが、安倍政府の暴力的な手法に沖縄労働者人民の怒りが爆発した。海上行動隊は、「刑事特別法」弾圧という脅しを吹き飛ばし、フロートを乗り越え徹底抗戦した。海保の暴力にケガ人も多数出たが一歩一歩と前進し、九月初旬までに掘削作業用のスパッド台船にしがみつくところまで肉薄した。また辺野古から、より多くの現地への結集が発信された。それは間もなく実現した。8月23日、シュワブゲート前に3600人が大結集したのである。わずか一週間ほどの呼びかけで主催者の思惑を越える大衆が決起したのである。辺野古現地への大結集。それは長年にわたって辺野古闘争を闘いぬいてきたすべての仲間が夢にまで見たことであった。安次富氏は、「この闘いは勝てる!」と興奮気味に訴えた。9月20日にも、辺野古の浜に5500人が大結集した。そこには議会政党の政治的な思惑が透けて見えもするが、何より現場の闘いが切り拓いた地平であることは間違いない。こうした闘いと連帯して東京や大阪などで同時アクションも取り組まれた。カヌーなどが全国からのカンパで寄せられ、よりダイナミックな闘いを展開できるところまで来ている。


辺野古闘争の現段階


 10月末段階での状況をまとめておく。第一に、大浦湾でのボーリング調査について。8月に始まった浅瀬でのボーリング―掘削作業は九月中旬までに終了し、今後の焦点は大浦湾の深い地点でのボーリング調査である。そのため陸でも海でも、作業に使う大型スパッド台船を阻止する闘いに照準を絞っている。沖縄防衛局は、容易に踏み込めず、11月30日の工期を延長せざるを得なくなっている。これと併せて、さらに3カ所の掘削作業も追加申請中である。

 第二に、「埋立設計概要変更申請」をめぐる攻防。沖縄防衛局は、9月3日に「変更申請」を「県」に提出した。これは建設計画に反対する名護市長の「許可」手続きを回避することが主要な目的である。11月知事選前に仲井真「県」政のもとでいっさいの手続きを完了してしまおうという狙いである。仲井真もそれに応えるかのように「申請」を見もしないうちから「承認」をちらつかせた。だが闘いによって「変更申請」手続きは遅れ、可否判断は11月16日の知事選後に持ち越された。許しがたいことに、仲井真は〝最後の仕事〟として、任期満了の12月9日までに「承認」する構えを見せている。

 第三に、シュワブ内のアスベスト施設解体工事について。7月1日に当時の防衛相・小野寺が「移設工事着手」とした解体工事は、アスベスト対策をせずに着手していたことが暴露された。そのためブロック二つほど壊しただけで作業はストップした。その後、沖縄防衛局は、手続きを進めたが、アスベスト飛散を住民に知らせる掲示板を基地内の作業現場にのみ取りつけたということが発覚した。国は、住民の命と健康を守るためのまともな対応さえ放棄しているのである。「法に従っている」とはよくぞ言えたものである。10月29日、闘う仲間は、飛散性アスベスト施設解体作業の再開を阻止するゲート前行動を呼びかけ、一段はね返している。

 第四に、辺野古崎に設置予定の「100メートル以上の仮設桟橋」について。沖縄防衛局は、6月に非公開の極秘入札を行ない、大手ゼネコン・大成建設が受注した。「仮設」というが砕石を放り込み金属製資材も使用するもので、防衛省曰く「事実上の埋め立て」である。大型トラックも乗り入れ可能な巨大なもので、ボーリング調査にも使用されるというが詳細は隠されたままだ。


沖縄の未来をかけた闘い


 なぜ辺野古闘争が、世代を越えた広がりをみせているのか。それはやはり沖縄戦という歴史体験が、脈々と受け継がれてきたことが大きい。例えばテントでは沖縄民謡の名曲「艦砲ぬ喰ぇー残さー」(〝艦砲射撃の喰い残し〟の意)がよく唄われる。それは戦争の苦しさにとどまらず、バイタリティーあふれる生き方や戦争への根源的な怒りが、軽妙なメロディーに溢れている。「生まり変てぃん 忘らりゆみ/誰があぬじゃま しー出ちゃら/恨でぃん 悔でぃん飽きじゃらん/子孫末代 遺言さな」(たとえ生まれ変わったとしても決して忘れることはない、あの戦争をしでかしたのは誰か、この反省と教訓は未来永劫子々孫々に語り継ぎましょう)。

 沖縄戦から69年、沖縄労働者人民は、つねに国家権力の暴力と対峙して反戦・反基地を訴え続けてきた。だが、今なお広大な土地が軍事基地に占領されたままだ。米軍関連の「事件・事故」で何人もの命が奪われた。やりたい放題の軍事訓練に苦しめられてきた。抗議の声はいつも一蹴された。政府―防衛省は、新たな基地建設を「負担軽減」と言いくるめるために無数のウソをつき続けている。8割を越える反対を押し潰そうと〝カネと暴力〟を駆使している。沖縄にとって重要な問題は頭越しで「日米合意」し、後は何を言おうが「粛々と進める」である。このままでは未来永劫、国家権力に従属した道しか残されていない。沖縄はこれでいいのか、このままでいいのか。こうした自問を抱えた人々が、辺野古に結集している。辺野古闘争は、目の前の新基地建設を阻止する闘いであるとともに、闘いの歴史を学び継承する場でもある。語りかけられた次世代の若者たちも、先輩たちの訴えに応答しようと動き始めている。くり返し「大人の責任」を問われる。このような意味で辺野古闘争は「沖縄の未来をかけた闘い」である。ゆえに、辺野古闘争は決して退くことができない、退いてはならない闘いなのである。

 闘いはこれからも続く。私たちも現場にかけつけ闘い続ける。辺野古闘争に勝利するために、共にスクラムを組もう。いつか現場で会おう。